2010年2月17日
レ・ズアンの経歴
クアンチ省に生まれる。1920年代後半、鉄道員として働きながらファン・ボイ・チャウ恩赦要求運動(1925年)などの愛国運動に参加、1928年新越革命党(インドシナ共産党の前身)に入党。1930年から1936年まで投獄され、その後中圻地方委員会書記を務め、1939年にインドシナ共産党中央委員に選出されたが、1940年に再び投獄され、1945年8月に釈放された。その後主としてベトナム南部で活動し、1947年南部地方委員会書記、1951年南部中央局書記、同年の第2回大会ではベトナム労働党政治局員に就任。南ベトナムにおける地下組織の拡大などを指導し、後に党内で南部派と目されるようになった。1957年にチュオン・チンの党第一書記解任に伴いハノイに戻され、1960年の第3回大会で党第一書記に就任。党内序列でホー・チ・ミン主席に次ぐ地位を占め、党務の実質的な統括責任者としてベトナム戦争時の労働党を指導した。
1969年にホー・チ・ミンが死去すると、引き続き第一書記として名実ともに党のトップに立ち、南北ベトナム統一後の1976年、第4回大会で共産党書記長に就任した。
その後ズアンは南ベトナムの急速な社会主義化を推進し、計画経済に依拠する社会主義経済システムの貫徹を目指した。一方外交面では関係が悪化した中華人民共和国に対抗するためソビエト連邦との関係を強化し、1978年にはコメコンに加盟。中国が支援する隣国カンボジアのポル・ポト政権(クメール・ルージュ)を打倒するためカンボジア侵攻を決行し、また国内の華人を中国に追放(ベトナム側による国外追放か華人自身による亡命かで、両国の見解は一致していない)し、1979年に中越戦争が勃発した。こうした外交政策は国際的な孤立を招き、著しい経済困難に陥ったため、1979年以降「新経済政策」を提唱、生産請負制の導入、農産物取引の一部自由化を進めた。1985年には価格統制の廃止、デノミネーションなどを打ち出したが、大規模なインフレーションを引き起こしたため、国民の不満は高まった。党内でもより抜本的な経済改革が不可避であるとの議論が多数を占めるに至ったが、すでに病床に臥していたズアンはリーダーシップを発揮することなく翌年そのまま死去した。後継書記長にはチュオン・チンが就任し、同年12月の第6回党大会でドイモイを発動するまでのつなぎ役を果たした。
現在では、ホー・チ・ミンから引き継いだ祖国統一を果たしたものの、むしろその後の政策に対する批判が強く、特に「自らをホー・チ・ミンに比肩しようとした」言動があったとされているため、市民の評価は高くない。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
レ・ズアンはベトナムの革命家、政治家として活躍した人物です。
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